久々にブログを書きます。再就職してからちょうど半年が経ったため、地方公務員法22条に基づく条件付採用期間が終わり、晴れて正職員となることができました。
これまで色々と辛い思いをしてきましたが、現在は安定した職業生活を送ることが出来ています。仕事がだいぶ落ち着いてきたので、ここで私の過去について少し振り返ってみたいと思います。
目次
概要
平成28年の夏に、勤務先の産業医から「事務部長には私から話をしておくから、今すぐに家に帰ってしばらくの間仕事を休みなさい」と言われ、病気休暇を取得することとなりました。昇進で中間管理職となり、県外へ転勤してから3年目のことでした。日付が変わるまでに帰宅できた日はほとんど記憶がなく、本来休みであるはずの土日出勤は当たり前、毎月の時間外労働は実に200時間を超えていました。上司からの恒常的なパワハラも相まって、肉体的にも精神的にも限界に達していました。
病休に至るまで
前任者は1年しか在籍していなかったので、本来やらなければならない業務がほとんどできておらず、作成された資料も根拠不明なものばかりでした。本来は部下を1人持つはずでしたが、体調不良で前年度末に退職してしまったため、着任してから1年間はその分の仕事も私が引き受けることとなりました。また、2人いた直属の上司は互いに業務上の連携が全くとれていなかったことから、私がそこに仲介する役目も担いました。
一方で、ある事情から主に統計業務で使用するシステムが正常に機能せず、ベンダーに不具合報告をしてもほとんど対応してもらえなかったため、システムに頼ることなく時間をかけてアナログ的な手法で業務をせざるを得ませんでした。こうした事情を幹部に説明しても全く理解してもらえず、結果が出せない事や、結果を出すことが遅いことについて厳しく叱責される日が続いたのです。
行き過ぎたハラスメント
1人の幹部(以下M氏という)は行き過ぎたパワハラをすることで有名で、過去にM氏のせいで休職や退職に追い込まれたり、自殺したりした職員もいたため、本部からも問題視されている人物でした。
M氏の機嫌が悪い時の職場の雰囲気は最悪で、50人ほどの職員がいる大部屋は静まり返っており、その中でM氏が仕事のミスをした職員を怒鳴り散らす声だけが辺りに響いていました。権威主義で自己顕示欲が強く、他職員への見せしめのためわざと聞こえるように大声を出す習性があり、その内容も人間性を否定するものばかりでした。
私もよく叱責されました。いつもお互いの顔と顔の距離は10cmほどだったでしょうか(正直口臭がきつかった)。何か言い訳をしようとすると即座に話を遮ろうとするので、逆に何も言わずに黙っていると、「何も言わないのならずっとそこで立ってろ」と吐き捨てられることもありました。他部署から事務所にやって来た職員の話によれば、「まるで小学生が先生に怒られて立たされているような風景だった」といいます。
ある日、突然机の引き出しから取り出した千枚通しをこちらに向け、「お前ちゃんとやらんのだったら本気で刺すぞ」と脅され、引き攣った私の表情を見てニヤニヤ笑みを浮かべられた時の精神的ダメージは計り知れないものがありました。まさに極道そのものの言動で、ここまでくるともはや脅迫罪が成立するのではないか、というぐらい酷いものでした。こうした日々が続き、私の精神は徐々に蝕まれていくこととなります。
まんのう公園のルピナス(2014年4月27日)
体調の異変
元々慢性的な肩こりに悩まされていて、病休になる数か月前からは特に左半身の痛みが増悪し、物忘れが酷くなりました。脳神経外科や整形外科にかかってCT、MRI、レントゲンを撮りましたが、特に異常な所見は認められませんでした。
しかし、体調はますます悪くなる一方で、ついには思考が働かなくなり、相手が話している内容が全く理解できなくなりました。M氏からの叱責についても、自分がなぜ叱責されているのか、何を反省すればいいのか、それすら理解できない状態になってしまったのです。この頃から人間不信感や希死念慮といった感情が付き纏うようになりました。
サン・アンジェリーナから眺める瀬戸大橋(2017年9月24日)
産業医からの診断
月に1回定期的に産業医の面接を受けていました。産業医からの助言で何とか頑張って来れましたが、休職前最後の面接時に「もう限界です」とつい本音が出てしまったとき、それを恰も予測していたかのように鞄の中からさっと診断書を取り出し、しばらく自宅で休養するようにと指示を受けました。後日実家に帰省し、地元の心療内科に通院しながら療養生活を送ることとなったのです。
少し余談になりますが、復職後に産業医から「あの時私が仕事を休むよう止めなければ、貴方は間違いなく死んでいた」と言われました。いやいや先生、それはちょっと大袈裟ではありませんかと問うと、「私は精神科医で貴方のような患者を数多く診てきてたが、あの時の貴方は間違いなくこれから自殺する人間の表情をしていた。」と言うのです。意識していなかったことだったので意外に思いました。
栗林公園(2015年2月22日)
療養生活
通院先の心療内科では、初診時に医師と30分程度の面接を受けた結果、鬱病と診断されました。定期的に通院し、復職のための助言をいただきながら抗うつ薬を服用しました。また、アドラー心理学に関する書籍を貸してくださり、これが抗うつ薬以上に良く効く薬となりました。2人の登場人物が対話形式で論争していて、複雑な世の中をシンプルに生きるためのヒントが記されています。興味がある方は是非読んでみてください。
療養後しばらくの間は仕事の責任感から気が休まらなかったのですが、なるべく自分の好きなことをして気を紛らわせ、日常生活においてストレスをなくす努力をしました。ただし、1月に1回は上司に病状を電話で報告する必要があったため、それが心理的な負担となって復職までの期間が延びる要因となりました。
復職後
復職時にM氏は転勤でいなくなっていたのでだいぶ気が楽になりました。部署(部屋)が休職前と変わり、用意されていた復職プログラム(自身の体調に合わせながら徐々に業務量を増やしていくもの)によって最初のうちは業務量も大幅に減らされ、残業も基本的に不可となりました。
このことによって休職前よりも断然働きやすくなったかというと、実はそうでもありませんでした。まず、残業ができなくなったことから、所定労働時間内にその日の全ての業務を遂行しなければならなくなりました。できなかった分については他の職員が補完してくれましたが、当然のことながら翌日に幹部から叱責されました。言わば「軽減した業務を制限時間内にこなせるか」を試されている風にも捉えられ、休職前よりも気分的な余裕がなくなりました。
また、以前にいた部署の職員からは徹底的に無視をされるなどあからさまに冷たい態度をとられるようになりました。上司をはじめ、多くの部下との信頼関係は完全に崩壊してしまったのです。休職したことで関係職員の仕事の負担が増えたはずなので、この点について不満を抱かれるのは仕方がないことだと思っていますが、それに加えてうつ病に対する理解をしていただけなかった(要はずる休みをしていたと思われていた)ことも起因していたと推測しています。骨折などのように目に見える病気ではないので、そう思われても仕方がないと割り切りました。ただし、そうした冷たい態度をとられる度に、再びこの組織で皆と一緒に頑張って働きたいという気持ちは日に日に薄れていってしまいました。
復職から1年が経過した頃には業務量が元の水準に戻りつつあり、神経痛が再燃したことから再び休むという選択肢もありましたが、これ以上周囲に迷惑をかけたくないという気持ちが強く、依願退職することとなりました。
うたづ臨海公園(2015年9月27日)
失業
再び地元に戻り、失業認定及び求職活動をするため職業安定所に通う日々が続きました。体調や年齢を考慮すると再就職は非常に困難で、実際にいくつかの民間企業に履歴書と職務経歴書を送ったものの結果は全て不採用でした。これまでの苦労は一体何だったのか、紙きれ2枚で私の何が分かるのか、と怒りに似た感情が沸き上がってきました。
就職先が決まらないので、障害者雇用の求人も視野に入れる目的で精神障害者保健福祉手帳を取得しました。しかし、求人数自体が極端に少なく、いざ「クローズ(障害者であることを相手方企業に伝えないこと)で応募しますか?」と問われると、まだ健常者として頑張れるのではないかと躊躇してしまう自分がいました。結局のところ、せっかく取得した精神障害者保健福祉手帳は、1度も活用することはありませんでした。
一方で、採用基準が不明瞭な民間企業への就職よりも、遠回りしてでも何か目に見える資格を取得してそれを活かせる職に就いた方が効率がいいのではないかと思うようになり、社会保険労務士の資格取得を目指すようになりました。前職は労務管理が全く適正に行われていなかった組織だったため、社会保険労務士を目指すには十分な動機がありました。また、会計畑の人間で庶務や給与関係の事務経験がなかったため、それらのスキルアップを図るためにも興味のある資格でした。
その後も失業認定の関係で何度も職業安定所に足を運んでいました。その矢先である自治体の中途採用枠の求人が目に留ました。募集人数は僅か1名だけでしたが、作文と面接のみの手軽な試験だったので、受かればラッキー程度の軽い気持ちで応募してみました。結果はなんと合格、これが第2の人生の転機となって現在に至っています。
鬱病の後遺症
失業期間中は自宅に引き籠ることが多く、前職での辛い記憶がトラウマとなって精神的に安定しない日々が続きました。実際にあった嫌な出来事がフラッシュバックされ、今でもB氏が夢の中に出てくることもあり、忘れたくても頭の中から離れないのです。このことについては、通院先の主治医から薬物治療しか手がないと言われ、現在も抗うつ薬を服用しているような状況です。
また、健常だった頃に比べて物事に対する理解が著しく遅くなり、物忘れも更に酷くなった実感があります。仕事中は常にメモ帳を携帯し、些細なことでもこまめにメモを取ることを心がけていますが、完全には徹底できておらず、周囲に迷惑をかけてしまうこともあります。また、物事を深く考えようとすると高頻度で頭痛が発生し、それ以上頭が働かなくなってしまうこともしばしばあります。
今の職場は幸いにも人間関係に恵まれ、前職に比べればだいぶ働きやすい環境となりました。根底にあった人間不信感も少しずつではありますが解消されている気がします。
これからの人生
健康で普通の人間でありたいこと
残りの職業生活を通じてこの目標が達成できればよいと思っています。普通の人間と簡単に述べましたが、何をもって普通なのかは個々の価値観によって様々で、私個人にとっては非常に高い壁だと思っています。まずは極力他人に迷惑をかけないことだけを意識して生活しようと考えています。
青ノ山より望む瀬戸大橋(2017年7月1日)
長文になってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。